昭和四十七年二月十六日 朝の御理解


X御理解八十一節 「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向うへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」


 向うへおりたら、それで安心じゃと、それで安心じゃと、そこのところまでは、信心を本気で精進させて頂きたい。でなかったら信心を頂く本当の値打ちにもならないし、折角信心させて頂いて、いよいよ神様に喜んで貰うとか、安心してもらうことも出来ない。いつも不肖の子である、いつも神様に心配ばかりかける氏子であってはならん。もうあそこまで信心を頂いたから、もうあの氏子は大丈夫だと言われるところまでは信心を進めたい。それは向うへ降りたら安心じゃと、その向うへ降りるところまでの信心を身につけて行きたい。
 昨日幾人もの御取次をさして頂いた中に、私の方のテレビは大型のビクターですが。けども、もう五年位なりますから、大分映りが悪くなってる、第一カラーですけれども映した時にカラーで出て来ると思うと、いつとき見よるといつの間にか白黒になってしもうとる。そうかと思うとサーッと線が入って見えなくなってしまう。調節をしてもなかなか良くならないし、もう色なんかまたよい色になるまで放っておくより仕方ない、手のつけようがない。
 それで今まで美事なカラーで映っとるようだけど、すぐ白黒になってしまう。ある人が、ある願いをしておられましたが、そういうお知らせを頂いた。まあ言うなら赤くなったり、白くなったりと言う事でしょう。大抵おかげを頂いておる。例えばおかげを頂いておる安心というか、安心もなければ不安もないと言ったような状態までの信心を頂いて行くと、光橋先生の信心からそのように頂きました。どういう場に立たせて頂きましても、人間が障子一重がままならぬ人の身であるということ、それが人間の実相と。人間社会の実相である。
 どんなに偉いからと言うて、どうということはない、本当にいつどういうことになって来るかわからないと。けれども信心しておるから、大丈夫と言うから、信心しとるから安心というような、そんな考えは間違いだと、そういう信心では駄目だと、信心させて頂いとっても、いつどういうことが、起きて来るかわからんけれども、その時点に立った時に
、それをおかげにしていけれる確信だけは持ちたい。だから事実それは大地を叩く程間違いない、その気であるなら、というようなことを申しましたね。
 起きて来ることは、どんなことが起きて来るかわかりませんけど、それを日頃の信心にもの言わせて、元気な心で合掌して受けて行くとか、有難く頂くとか、そこから御神意を悟らせて頂く、信心にならして頂くなら、そこからのおかげは絶対のもの、そうすれば一段と信心も進む、力も付くというように、そこまで信心が段々たって参りますと安心ですね。神様、また自分ではどういうことになるかわからん、わからんけれども、それはどういうことと思うような例えば難儀の姿でありましても、その事実がおかげのもとになる。又おかげにしていけれる程の信心を頂けば安心だということになる。
 今日はまた、向うに降りたら安心じゃと言うところに焦点をあてて話を聞いて貰おうと思います。だからそこまでの信心ということと同時に、私はテレビじゃないけどね、いかにも安心しておるようであるけれども、何かが起きて来るともう赤うなったり白うなったりすると。一寸何か言われると、もう心が穏やかではない。顔ように出て来ておる。一つ稽古させて頂いて、どういうことを言うても聞いても、いつも同じでおれるようなおかげを頂きたい。そこまでの信心を頂きたい。
 私共がそういう頂けない内容として、おかげの頂けて居ない内容としてですね。あの人は偉いなあと思うてもですね。あの人は素晴らしいなあと思うて見てもですね。それを、素晴らしいとも偉いとも思わずに、それをむしろくさすような人がある。その心の内容と言うものは、本当にいやらしい、醜い。どんどんお金を貯めて行く人がある。あれはもうけちんぼで、亡者のごとあると言うて、皆が悪く言う、例えばお金を貯めるためには大変な努力を要する。
 それをどんどん群を抜いて儲けている、発展して行く、大したものですね。それを何とかかんとかケチをつける。心にはあ、あいつにはかなわん。あれは偉いなと思いよる。そしてそれを偉いと言えない心、そういう嫌な心、醜い心、そういう心がです。神様が「安心じゃ」と言うて下さる。言わば安心して下さらない内容ですね。いわゆる、があるのです。ですから、そういう心からまず、取組まなければならないのにと思います。心にゆとりを持つ、心が豊でありたい、むしろ例えば人の悪口を言うようなものがあったら、出来るだけその場を逃げようと、蔭で人を助けよとおっしゃるが、蔭で人を助けれる。蔭で人のことが祈れる。そういう信心になったら、神様もまず安心して下さる。
 勿論神様が安心して下さるということは、頂ける心も安心である。そこまで言ったら、人によったら一生懸命だった。これはやはりゆとりのない信心、私もつい二、三年前まではそうであった。祈りというものは実感、ですから実感もないのに、人のことも祈ったり、これは神様へは通じない。日本国中のこと祈るとか何とか言うけれど、言うなら天皇陛下の天長節を忘れるようであっては、祈っておるとはいけない。世界総氏子のこととか、世界真の平和とか、口で言うだけでは誰でも言う。
 だからそういうことは祈らんでもよい、言わんでもよい。痛いなら痛い、痒いなら痒い
と願って行けというのが私の信心でした。それが段々おかげを頂きまして、ゆとりが出来て参りますと、それが段々広く大きくなって来る。隣近所のことは言うに及ばず、まあこれは私の最近の実感ですけれど、本当にそれを祈らせて頂いて、それが有難い。もう世界の隅々のことが祈れるのである。世界国々のことが祈られる。
 もう最近はそれこそ御霊の世界のね、いわゆる精霊達、もうどれだけあるやら分かりませんよね。もう精霊達のことまでね、祈りが及んで行く、自分の心の中にも何とも言い知らない有難いものを感じる。これがどういうことかと言うとね、もうこの氏子はね、自分のことだけではない、人のこともこの位熱心に祈れれる内容。もう世界中のことだけではない、世界中の精霊達のことまで祈れておるということを神様が喜んで下さる。その喜びがこちらに喜びとなって帰って来るのであろうかと私は思う。
 これは度々御神前に出る度に祈らなければおられない。私はここ二・三年いつの間にか段々おかげ頂いて拝詞を奉上さして頂く。拝詞の中には必ずあります、天下国家のことから世界総氏子のことから、けどそれが只読んでおるとか唱えておるだけではいかん。それを唱えたらね、唱えたらこういうことが祈れ、唱えた氏子として神様が喜んで下さる。その喜びがこちらに帰って来るところまで行かねば、あなたの言うことでは未だ本なものではないということがわかるのです。
 いえ隣のことを願いよります、村中のことは願います、赤の他人の何にも知らんことを一生懸命祈っておる。それを神様が聞き届けて下さったような気がするならです、神様が喜びなさる筈がない。その喜びはどこに来るかと言うと、自分、こちらに帰って来ねばなりませんね。只願うと言ったんではつまらんです。信心が段々豊になって来ます。信心が段々大きくなって来る。
 ということはです、言うならば蔭で人を助ける力というものが大きくなって来るのですから、切実にです、蔭で何にも知らん、神様が聞き届けて下さってるだけだけれども、誰彼のことを一生懸命祈れる。
 ある時四神様がね、ある時ある問題をお届けさせて頂いた時、四神様が仰った。「人のことを一生懸命願ったことがあるか」と仰ったということです。人のことを一生懸命願ったことがあるか、人のことを一生懸命願う、「向うへ降りたら安心じゃ」と仰るのはね、蔭で人を助けれる程しの信心、蔭でそのことを一生懸命祈れる程しの信心、それが私は向うに降りた姿だと思います。
 それはいろいろありますよ。例えば八十一節だけでも、もうどのように、もう何十回繰返し頂いたかわからん。その度に違うのですが、そういう内容です。神様が喜んで下さるとか安心して下さる内容をですね、一つの今日私が申しておりますことが、その中にです、人のことが祈れれるです、しかも一生懸命に切実に祈らなければおられんという程しの心、信心が育って来たところに向うに下りたら安心じゃと神様が安心して下さる。
 ならそれとは反対にですね、神様が安心して下さらない、どんなに一生懸命参りよったら、信心は巧者になりましてもね、私どものテレビじゃないけれども、何かしてポンと押
すと青うなる、赤うなる、カラーです、かと思うと白うなる。そういう時に直面した時にです、これはテレビはおかしいぞ、これはどこか狂うとると思わせて頂く。そこのところを狂うておるところを私は修理修繕して行く心が、そこが改まりです。
 もう私は性分じゃろうか、ちっとしたことがプリプリ腹かこうごとある。今泣いた烏がもう啼いたというような、先からまではとても気分がよかったのですが、次に会うた時にはブーっと腹かいて傍にもよられんような人があります。これはもうくずれたテレビと同しことです。どげんチャンネルをこうこうまわしたっちゃもう映らん。もう根本的にこげんとは修繕せにゃ出来んということです。
 そういうことでは向うへ降りたら安心じゃということとは言えない。神様が安心して下さらん。けれどもそれをすぐ気付かせて頂いて、これは間違っとるなと。例えばそれをすぐ修繕する姿勢を作ろうとする迄位は、これは今からでも、只今からでも出来ることです。これはね、これからでも、そこに焦点を置かねばいけんですね。向うに降りたら安心じゃということを、言うところだけに、そこに焦点を置いて安心して下さる。それは沢山あります。神様が喜んで下さることはまだ沢山あります。
 それでその一つを今日は取り上げました。神様が安心して下さると例えて言うならばです、自分の周囲のそれは赤の他人のことかも知れん、それは縁のない他人のようなものかも知れませんけど、そのことが一生懸命に祈れれるという程しの信心が育って行くならば、自分でももうおかげは絶対に頂けるという安心が自分に生まれて来る筈です。
 この行き方でさえ行けばおかげを受けられる、徳も受けられる、力も受けられる。蔭で人を助けよと仰る、蔭で助けられる信心。そういう信心を願い、そういう信心を求めての信心姿勢にならせて頂いて、たら、まず神様が安心して下さる。向うへ降りたら安心じゃという内容の一部、それとはまた反対に、神様が心配なさる、神様が喜びなさらん、いつまで信心しよってもどうしたことじゃろうかと神様が嘆きなさる。そういう内容をです、テレビの例を取りました。
 けれどもこれは例えば、すぐ赤か白になったりすぐ乱れたりすると、ああこれは狂うておるなとすぐ気付かせて頂いて、それをやり直そうとする姿勢をね、私どもが作ったらよいという風に聞いて頂いたと同時にです、神様がそれこそ永年信心しよってどういうことかと嘆きなさろうと思う心の中に、あの人は偉いなあと心で思い乍ら、それを偉いと口に言えない、いやむしろそれをくさそうとするような心の讎しさ、醜さというようなものは、向うへ降りたら安心ではなくて、それではいつまでたっても皆様を心配させるということ。ですからこちらはいつまでたっても心配は絶えないと言うことになります。
 それと例えば、えらい商売が上手とか、金儲けがうまいとか、どんどん群を抜いて儲け出していく人とです、「あーもう儲け出しよるばってん、ろくなことはろくな奴じゃないと、あーもうけちんぼじゃん」と言うて、自分が手が届かんもんですから、かなわんものですから、それをくさすような心と言うものがです。言うならば隣が蔵を建てるとこちらも腹を立てるといったような人間の心の中にあるのです。それが偉いなと思い乍ら、偉い
と思いきらず、くさすような、そういう讎しい、醜い心というものに本気で取組んで、そういう心を取り除かせて頂くということ。
 だからそういう心がある間は、神様が、未だ安心はして下さらんのだと。向うへ降りたら安心と言うことにはならんのだ。御理解を頂きますとですね、そこんところ気付かせて頂いて、あるある自分の心にあるならばです、本気で豊かな心にならせて頂いて、人が悪口云いよっても、そういうところには逃げれるような心持ちで、それこそ蔭で人を助けよという信心にならせて頂く。そういう、気持ちにならせて頂いたら、神様がお喜び、神様が安心、そういうところを向うへ降りたら安心だというように聞いて頂いたですね。
どうぞ。